1990年

オリオンズからマリーンズへ

監督:金田正一・(徳武定之)

成績:5位(57勝71敗2分)

06.23 ボークの判定をめぐって金田監督が激しく抗議し、退場処分を受ける。〈対西武10回戦、西武〉
08.10 金田監督の通算勝利数400勝となる。〈対近鉄15回戦、藤井寺〉
タイトル 盗塁王:西村徳文

金田監督の12年ぶりとなる復帰で話題のシーズン、ルーキー小宮山悟の活躍や、前年まで4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得などがありました。

1991年

オリオンズからマリーンズへ

監督:金田正一

成績:6位(48勝77敗5分)

01.18 重光武雄オーナーの次男、昭夫が球団社長代行に就任する。
07.17 西村徳文が285個目の盗塁を決めて球団新記録を達成する。〈対日本ハム15回戦、川崎〉
07.31 千葉マリンスタジアムでのパ・リーグ初の公式戦が行われる。〈対西武16回戦〉
重光昭夫社長代行が、球団本拠地の千葉移転を公式に表明する。
09.29 シーズン観客動員数が95万4000人に達し、球団新記録となる。〈対近鉄25回戦、川崎〉
10.17 対ダイエー25回・最終戦、100万人の観客動員を達成。電光掲示板に「ありがとう川崎球場」という文字が出され、川崎球場はロッテの本拠地としての役目を終える。
11.01 千葉ロッテは、千葉移転による新しい球団のニックネームを募集する。
11.13 重光昭夫球団社長代行がオーナー代行に就任。同時に金田監督の解任と前西武投手コーチ八木沢荘六の監督就任を発表する。
11.19 千葉ロッテの新しいニックネームが「マリーンズ」に決定する。
タイトル 首位打者:平井光親

「テレビじゃ見れない川崎劇場」というキャッチフレーズで、TVCFを展開するなど流行語にすらなったキャンペーンを展開、悲願であった観客動員100万人を達成。

また球団は千葉への本拠地移転を決定、同時にニックネームも「オリオンズ」から公募で決定した「マリーンズ」へ変更が決定。新しい歴史を踏み出しました。

1992年

オリオンズからマリーンズへ

監督:八木沢荘六

成績:6位(54勝74敗2分)

03.30 球団がロッテとなって以来はじめて、オープン戦を首位で終了する。
04.07 牛島和彦が924日ぶりの勝利を涙の完投勝利で飾る。〈対ダイエー1回戦〉
ディアズが千葉マリンスタジアムでのパ・リーグ第1号を打つ。
07.12 愛甲猛の連続全イニング出場パ・リーグ記録は535試合で止まる。〈対日本ハム16回戦、千葉マリン〉
08.22 対日本ハム20回戦、主催試合44試合での観客動員100万人突破は球団の最短記録。

「千葉ロッテマリーンズ」として新たなスタート、ピンク色を基調とした新しいユニフォームで千葉のファンの熱烈な歓迎を受けての前半戦の快進撃は「ピンク旋風」などど呼ばれました。ルーキーの河本育之は左腕からの快速球を武器に19セーブと活躍しました。

1993年

オリオンズからマリーンズへ

監督:八木沢荘六

成績:5位(51勝77敗2分)

01.18 1993年のスローガンが「心・技・体 '93」に決まる。
01.25 22年ぶりにアメリカ・アリゾナ州で海外キャンプを行う。
05.03 伊良部が清原和博との対決で158kmの日本新記録を作る。〈対西武5回戦、西武〉
07.09 佐藤幸彦が1試合4犠打の日本タイ記録を達成する。〈対西武13回戦〉
07.25 南渕時高が14打席連続出塁の日本新記録を達成する。〈対ダイエー16回戦、福岡ドーム〉

伊良部秀輝の快速球に再び注目が集まりはじめたシーズン、新外国人メル・ホールのスピードとパワー溢れるプレーもファンに人気となりました。オフのドラフトでは諸積兼司、小野晋吾、福浦和也など以後チームの中心となって活躍する選手を指名しました。

1994年

オリオンズからマリーンズへ

監督:八木沢荘六・(中西太)

成績:5位(55勝73敗2分)

01.10 1994年のスローガンが「激闘」に決まる。
08.02 八木沢監督が休養し、中西ヘッドコーチが代理監督に就任する。
08.26 西村徳文が通算350盗塁を達成する。〈対ダイエー19回戦、千葉マリン〉
11.01 広岡達朗のゼネラル・マネージャー就任とボビー・バレンタインの監督就任を発表する。
タイトル 最多勝利投手:伊良部秀輝、最多奪三振:伊良部秀輝

伊良部秀輝がいよいよエースとしての本領発揮で投手2冠に輝くものの、チームは5位、オフには大改革が行われ、GM制が導入されることになりました。またドラフトでは前年に続き黒木知宏、サブローなどチームを背負う選手の入団が決まりました。

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